耶律楚材 小説
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P164
小説で万松老師が耶律楚材に与えた公案
如何転得山河国土帰自己
(如何にして山河国土を転じ得て自己に帰するか?)
下
「楚材が設けた「十路課税所」と新しい税制によって、漢人世候は徴税権を奪われたことになる。怨みを買っているにちがいないことは、楚材はよく知っていた。」耶律楚材 下 P194
「モンゴル政権のなかで、耶律楚材は孤軍奮闘していた。
彼がオゴディから受けている寵愛にたいして、嫉妬する重臣はすくなくなかった。程度の差はあっても、モンゴル系の人たちは、ほとんど誰もが胸に抱いていたであろう。」耶律楚材 下 P199
「鎮海はウイグル語やペルシャ語ができるので、色目人はまず鎮海に近づき、彼に推挙してもらおうとした。」耶律楚材 下 P112
「バイカル湖を中国では古くから「北海」と呼んできた。」
匈奴「蘇武 19年の抑留」「李陵」
耶律楚材 下 P112
「皇后のそばに、一人の色目人の女がひかえていた。美しいというよりは、妖しい感じのペルシャ人女性である。ファーティマという名で、皇后のふところ刀とみられていた。」耶律楚材 無弦の曲
|楚材はファーティマの流し目を思い出した。それは、「あなたは大丈夫よ」と言っていたかのようだった。
「耶律楚材は占星のことに専念すべし。今後、天文に異変のあるときにかぎり、参内して奏上すべし」
耶律楚材 下
キエフ城を守って勇戦したドミトリー公は、バトゥによって命を助けられている
耶律楚材 無弦の曲
「ウルツサハリよ、天文の異変とはどんなことなのか?」
「えいわく(火星)が、房(さそり座)を犯しております。」
耶律楚材の占星を疑う者は、モンゴル帝国には一人もいない。
「ちょっとしたきょうじょう(騒動)があるでしょうが、星のようすでは、大事にいたらないはずです。騒ぎがおこっても、大きな事件にしないことが最良の対策かと存じます。」
と、楚材は答えた
下
(帝国の崩壊は座視してもよいが、そのために人民が塗炭の苦しみに遭うのはすてておけない....)
鉄壁から正確な情報を得て、情勢を把握してから楚材は参内することにした。
ー天文に異変あるときにかぎり、参内して奏上すべし
といわれている。
「ウルツサハリよ、天文の異変とはどんなことなのか?」
「熒惑が房を犯しております。」
「何を意味するのですか?」
天下大乱は、これによって避けられたのである。
これが耶律楚材の最後の仕事となった。
中原の百姓をして、じゅうてきにふみにじり殺さるるに到らざらしめしは、みなかの人の力なり。
いわゆる、自らおとしめ損ないして以て権を行うものは、楚材、それ近きか。
陶老、無弦なれど、猶お是れ剰り
如何ぞ、居士、更に琴無きは
耶律楚材 下 無絃の曲
夏五月、位において薨ず。年五十五。
と、在職のまま死んだことになっている
「ウルツサハリなら、ここまでしなかったでしょうね.....」
皇太后ソルカグタニは、皇族処刑の決定をきいたとき、そう呟いた。
耶律楚材 追記
1251 モンケ即位
フビライ 翌年、雲南に兵を進めた
おもうに彼の努力は、儒仏に根づいた文明と人命を、大破壊から守ることに集中されていて、戦争が上手であったのでもなく、税収をあげたのでもない。イスラム史家の立場からみれば、楚材にはしるすに足る業績がなかったことになる。
陳舜臣
中島敦は、生前。楚材の文集十四巻のうち、巻四まで朱を入れて読んでいたという。
中島敦の耶律楚材が読めないのは私たちの不幸である。
陳舜臣
万松老師は、法任より一歩前進して、二人を殺すことに賛成した。~万松は、仏法の理よりも、現実をみつめる宗教者であった。 上 P138
黒い布で鞘を巻いた剣を握りしめている。すこしはなれた塀のそばの塊樹の根もとに鉄壁が伏せていた。
燕角楼
一般市民は、縄につながれて、奴隷として将兵に分配された。女たちは大声で泣きながら、モンゴル兵の馬について行く
耶律楚材 下
だが、モンゴル軍は、逃亡者をかくまったり物資を施したりした者は家族ごと殺し、その村も連座するというきびしい規則をもって臨んだ。
楚材はカラコルムに急使を送った。
耶律楚材 下 P138
屠城だ。。。
まだ百年あまりしかたっていない。歴史に学ぶことをしないのか
総司令のバトゥは、キエフの攻撃をモンケに命じた P242
モンケはキエフに降伏勧告の使節を送ったが、キエフはその使節を殺した。キエフの運命はこれによってきまったと言ってよい。
屠城以外にないのである。